マイケルジャクソンの映画を見てきた

 マイケルの部屋はおもちゃであふれていた。ピーターパンの本を大切にしている。庭にはラマやキリン、友達はチンパンジー。わたしは親近感でいっぱいだった。完全に子供である。マイケルにとって、音楽はただ楽しいものだったのだろう。音楽、遊びの邪魔はされたくない。「自分の道は自分で作る」と繰り返し言う。その姿は大人への一歩みたいだ。けれど、大人になりたくないし、大人の言うことはわからない。ただ、邪魔をされたくなかったんだと思う。

 わたしには大きく子供の部分がある。それをうんざりと持て余している。それでいながら、わたしの中の四歳児が暴れているとき、「後でこれを書こう」と思っている自分が見ている。書きたいことが再生されて止まらない。伝えたいと思う。18歳の高校生が、ふざけた四歳児を俯瞰して書いている。わたしの中にそのような「作文キット」がある。このツールを使って、わたしは自分の表現をする。日常にある感情を、作文キットで記録する。そうすることで、自分のわけのわからなさから解放される。誰かに伝えたい欲も満たされる。

 マイケルはすごく上質な「音楽キット」を持っている。それはわたしのキットとは比べられない、雲の上で作られたみたいな上質さだ。でもそのせいで、彼は不幸にもなった。彼はただ彼の中に降りてきた音楽を記録していったのだと思う。ここをどんなふうにしようか?と迷ったとき、彼はその答えが「どこかから」「降りてくる」のを待っていた。それはたまたま起きる奇跡ではない。マイケルの中の子供が、彼の中で作っていると考えた。

 完璧を求めて、彼は鼻の形を変えていた。彼は最後、鎮静剤のオーバードーズで命を落としたと聞く。事実であるかはわからない。彼の中で痛みはノイズだったのだと思う。とてもゾッとする。わたしは文章を書くときも、勉強をするときも、手のささくれが嫌だ。ものすごいノイズなのだ。「ここに何かある」と考えが止まらず、ずっとむしってしまう。その結果、爪は陥没して、指先は変形した。

 私たちは自分をカスタムできない。例を車で上げる。メインパーツのエンジンだけ正規で配られる。残りの車体は自分で育てるように言われている感覚だ。足りないものがたくさんある。だけど、手作りの工作では仕上がらない。好みのパーツを選ぶ自由もない。たくさん足りないのに、選択はできない。時間がそれらを育てていく。仕上がりは偶然なのか。自分が知らないだけで約束されているものなのか。

 それをカスタムできるとしたら、通常と外れた場所で行われると考える。それは狂った部分を大事に拾っていく作業だ。ゴールがすでに決まっているのだとしたら。わたしの人生は最初からプログラム済みだ。いまのたうち回って、未来を考えているつもりの自分が愚か者に感じる。

 予定調和。発達障害の自分の未来はどこへ向かうか。マイケルは約束されたような才能を持っていた。間違いない成功が見える。マイケルは黒い肌のまま日々を過ごす。わたしが一生ずっと発達障害であるようにだ。ASDの嫌な部分を眺める。何も実らずモノクロの人生が浮かぶ。しかし、こうして話せる場がある。わたしは予定調和の明日を取り壊したい。それは成功するとか、勝つとかではない。カスタム可能にすることへの期待だ。良いか悪いかはわからない。