先日、わたしは英語スピーチコンテスト大阪府大会に出た。会場に着いたとき、違和感を覚えた。ムクドリの群れのようなものがどこにもない。日本語で話すひとが少ないというのもあるが、そろえようとしている方向性がない。個性豊かというのはちょっと違う。髪型も服装も種類がたくさんあった。でもそれでは説明がつかない。何が違うのだろうと考えていた。
原因はわからなかったが、居心地が良かった。なんだかいつも目立ってしまうわたしが、埋もれていた。飛び出さないということは、楽だなと思った。
わたしは人前で何かをするのが、幼い頃から好きだ。緊張するということがあまりないし、暗記が得意なので、内容や段取りを覚えるのもはやかった。そして拍手をもらうのだ。観客はいわゆるカボチャである。
ところが、最近、わたしは緊張するようになってしまった。このスピーチコンテストの会場についた途端に、頭の中から原稿が消えていく気がした。会場ではネイティブ発音の人がスラスラと話していて、これはまったく敵わないと考えたのだ。居心地がいいと言いながら、それとは真逆の気持ちにもなっていた。
周りを見て、自分と比較して緊張する。これは、幼いわたしはまったくわからない事だから、成長だよと言われた。でも、すごく邪魔な機能だ。でもわたしはこの機能が付いてしまった。緊張すると、失敗の確率が上がる。失敗しては世界が終わる。
もとの自分に戻ろうと考えたけれど、気持ちがざわざわするのがとまらなかった。仕方がないので、原稿を開いて、もう一度頭に入れる。何度読んでも、頭の中から流れ出してしまうような気がした。ざわざわと原稿が逃げ出していく。焦る。どんどん焦る。
敵わなくても、いいじゃないか。一生懸命やったから、負けてもいい。その考え方は、わたしは好きじゃなかった。一生懸命やったら、勝ちたい。結果を出したい。一生懸命やって負けたら、とてもとても悔しい。少しも良くない。一緒に来ていた家族が言った。敵わなくても良くはないけど、負けても良くはないけど。でも、自分と比較してこれは勝てないと気が付くことは、分析ができていてとても良いね。
負けたくはないけど、これは負ける。だから、勝ち負けは棚に上げておいて、主張を伝えることを考えよう。今回のわたしのテーマは「日本語は空気も読ませる言語」である。舞台に立った時、自分の手が震えていた。観客はカボチャだ。観客はカボチャだ。わたしは人間が風景にしか見えていなくて、願わなくても観客はいつでもカボチャだったのに。でもだんだんカボチャに見えてきた。よし、来た!と思った。口がすらすら動き始めた。
言ってもいないことを、理解してくれという状況はおかしい。その指示はどこに書いてあったのだ。空気を読めとはどういうことなのだ。観客の反応はとても良かった。共感してくれていると感じた。普段、周囲の人たちにおんなじことを主張しても、何を言っているのか?というような反応である。わたしはとても嬉しくなって、張り切ってスピーチした。
話しながら、思っていた。ASDは日本人が産んだものではないのか。錯覚だとは思う。世界中にいると知っている。でもこの場では、わたしの主張を普通の人たちが自分のこととして共感している。そして、喋りながら、空気に含まれるパーツには、声量や声色も含んでいるのだと気がついた。皮肉や陰口には、このパフォーマンスがよく使われる。途中から、練習で考えていた発音や注意ポイントも何も気にせず、観客の共感をもっと得ようと頑張った。とても共感が嬉しかった。
終わったとき、わたしはとても良くできたと感じた。わたしが初めに思ったように、まったく自分のスピーキングのレベルが賞をもらうところにないのは改善できていない。でもスピーチの内容が伝わって、観客の反応が良かったことが慰めであった。ここでもしも、できなかったら、数少ないわたしの得意なことが減ってしまう。ただでさえ、とても不得意なことが多いのにだ。だから緊張を押し除けて出来て嬉しかった。
だがしかし、この後にコンテンツの内容まで負けてしまうとは思わなかった。
最後の人のスピーチを聞いた時、すごく嬉しかった気持ちが一撃で打ちのめされた。その人は、アジア圏の方だった。外国から見た日本人がテーマであった。なぜ日本人はグループで動くのか。日本語は平仮名、カタカナ、漢字と大量に覚えるものがある。それを使いこなして、グループの中でこれ以上ないほど正確にキャッチしあえるのはなぜなのか。
これはわたしと同じ境遇であると考えた。グループの中で複雑な会話をし、仲間としての行動をする。ムクドリの群れだ。それが成り立つことをすごいと思っている。外国から見た日本がそんなふうであるなら。わたしの考えていることを、他の人も思っている。それが衝撃だった。彼はASDの立場からではなく、日本の外の人間として主張している。そして、内容はあまり詳しくは書けないが、その主張も、パフォーマンスもスピーキングも素晴らしかった。自分の考えの一歩も二歩も上を行っていると感じた。
明らかに自分のレベルが、この競争に到達していない。英語のレベルも、内容も。一生懸命やったから、いいとはやはり言いたくない。しかし、自分の視野の狭さを、痛さとして感じた。できないことがたくさんあるけれど、得意なことは得意でありたかった。でも一歩違う世界に出たら、太刀打ちができない。わたしは英語ではなくて、世界の広さを勉強してしまった日になった。
(画像はあんまり関係ないけど、オーストラリアで食べたスコーン)

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