発達障害のわたしの側に母が居なくなったら

 先日、母が虫のように丸まって静かになってしまった。そのまま動かないので、どうしたのかと見に行った。「なんか痛い。どこが痛いかわからないけど、苦しい」救急車を呼ぶ場面か?とわたしは焦った。いいや、いらない、呼ばないでくれと母は言った。それから一時間半くらい母は丸まっていた。

 わたしはその間に、母がもしも死んでしまったらという想像を爆走させていた。これからどうやってわたしは生きていこう。朝起きたら、母がいない。ご飯はどうするのだろう。いっぱいいっぱいになった時に、背中を撫でて重いものをはらってくれる母がいなかったら、どうしたらいいのか。小さい子供みたいに懐く相手はどうなるのだろう。どこで僕は大人になり、死んでいくのだろうか?洗濯は?

頭の中は母の死後の世界でいっぱいだった。どんな人が居ても、仲のいいお友達が居ても、母は必要な存在だ。うるさいなあと思うこともよくあるが、それがいきなりなくなってしまうとどうなるのだろう。当たり前の世界があっという間になくなってしまう。まるで大災害の後のように、虚無になってしまう。悲しいよりも、何もない感覚に近い。横でまだ生きている母を見ながら、僕も一緒に死にたいなと考えた。振り返ると、雲ひとつない青空のように自分のことだけ考えていた。

 気がついたら苦しんでる母にくっついてた。自覚なしに。もう、こうやってくっつくこともないのだろうと思っていたから、久しぶりのことだった。

 その後、母は何事もなかったように回復した。しかし心配するわたしの顔を見て、母は数日後に病院に行った、検査の結果は異常なしと出た。とてもホッとしたが、同時に焦りを覚えた。これはきっとまたやってくる。早く自分で人生の道路を敷く方法を学んで自立しなくては。

 でも自立するってなにを基準に言うのだろうか。自分で言ったことに自分で疑問を覚えた。勉強よりも大切な人生の時間というものを学んだ感覚だった。でも、次に同じことが起きた時に、また同じ決心をしているかもしれないけど。それでも進化していこうと考えた。

 だがところで、検査の結果は異常はない。では母のしんどさはどこから来るのだろう。わたしも蕁麻疹を出したり、倒れたり、高熱を出したりする。それらは大概原因がわからない。たぶん、気持ちの負担が身体にでる。見えないから原因が探せない。だから、異常がないからと言って、母のしんどさがなくなるわけではないと知っている。見えないしんどさは、わからないぶんだけ重いと思う。

(2025年6月14日 Twitter X)