草間彌生の展覧会

 前から気になっていた、草間彌生の展覧会に行ってきた。

 小学校の頃、母が着ていたシャツに水玉のかぼちゃが書かれていた。おいしくなさそうなかぼちゃだった。だけどとても可愛いと感じていた。もしこれが現実にあったら手に入れたいと考えていた。

 中学生の頃、それは実はこの世にあったと知る。テレビを見ていたら、あのかぼちゃが海に流れていた。どこかにあったらしい。わたしの欲しいかぼちゃが流れて来たら拾うのに。

 次の出会いは、家の本棚だ。草間彌生の作品を荒木経惟が撮った写真集のようなものがあった。かぼちゃだけではなく、赤い水玉が悪夢のように散らばっていた。それが写真なのに動く。iPhoneのLive Photoのように短く動く。

 荒木経惟の写真はわたしには動いて見えてしまう。猫の写真だったら、猫が一瞬生きて動く。それがあの水玉で起きるので、すごかった。

 ここまでが、わたしの草間彌生との出会いだ。

(実は、3、4歳の頃に既に一回行ったことがあるらしい。全く覚えてない。勿体無いと思うし、その頃の自分が羨ましい)

 会場に入った瞬間から、水玉で埋め尽くされた絵が出てきた。

 絵のモチーフになった詩なども書かれていたが、中でも共感できたのが、「現実と妄想の狭間って、なんだろう?」だ。

 見えないものを見たことがある。なぜ、見えないものがあるってわかるか。中学生の時から見えないものが見えるようになって、たくさんの人に「そのようなものは見えないから、大丈夫だよ」と何度も声をかけられているからだ。

 私なりの答えは、現実も妄想も、自分にとっては現実である。同じりんごでも、真っ赤なリンゴに見える人もいれば、血のように濃い赤に見える人。茶色に見える人だっているかもしれない。

 色を例に例えてみたが、見えている景色が、みんな同じとは思えない。様々な景色があるので、自分の景色を大切にすることが良いと私は考える。

 絵画の説明の中で、「実際に見た景色で書いています。」と書かれているのをみた時、羨ましく思った。

 私が過去にみた激しい例としては、天井におじさんがはりついていたり、上からクロマグロみたいな大きな魚が降ってきたとかだ。本当に芸術のかけらもない。ただ単純な怪奇現象である。

 このような絵が描けるのは本当に欲しい能力である。わたしは吸い寄せられてしまう。

他にも、『靴ほど面白いものはない』や、『ブドウは私の恋人である』などの面白いことが書かれていたのを覚えている。

 作本の中には、題名は付属品で題名とは関係のないものが主役となっていたり。警告色がかなり激しい蝶。同じかぼちゃやブドウといった題名でも、少しデザインが違ったり、一つ一つが違う形をしている。

 無限の網。人生のような絵だ。自分の心のように無数の網目だ。よくみて見ると、網の方向が微妙に違う。色や形、網の太さも一本一本が違う。網が生きている。

 そうだ。そういえば、実は母親が以前から持っている黄色いかぼちゃが欲しくて堪らないのだ。だから、今回の展覧会でグッズをいくつか買ってもらった。誕生日が近くてラッキーだった。