この本の作者は自閉症者だ。わたしのように体験を書いているのではなくて、創作した物語を書いている。そして物語の主人公は自閉症である。主人公の名前はサンデー。娘がいる。娘の名前はドリー。二人の世界に、異物が入る。それが隣人ヴィータだ。
わたしはこの本を触るのがなんだか怖かった。実はわたしは自閉症の人が書いた本をじっくり読んだことがない。パラパラと読んだことはある。恐ろしいことが書いてあったらどうしようと思う。わたしの知らないわたしのことが書いてあったら嫌だと思う。だから表紙だけながめて、しばらく読んでいなかった。
表紙の写真の人は主人公のサンデーだろうか。鼻と口が水から出ているし、あたたかい色をしているからたぶん生きている。でも肌の部分は青い。わたしの世界もこんな感じだ。何かに遮られている。その向こうに社会がある。にごった膜の向こうに、みんながいる。
僕は自閉症の自分の感覚を書いたけど、この作者は自閉症から見た普通の人たちの様子を書いているのだと思った。でもその物語の仕組みは、自閉症のやり方でできている。
ディテールが書かれている。虫眼鏡で見ている。虫眼鏡をはみ出したらもう見えない。「指は小さくまるで子供のような手をしていたけど何度も身振りを繰り返していたからそのたびにワインレッドのネイルがちらちらと暗い光を放った。」見ようとして見ているのではなくて、虫が光に寄っていっちゃうみたいにだ。わたしはいつも吸い寄せられて見ているから、そう思う。
わたしは道を歩くとき「前を見て!」と繰り返し言われる。いつも虫眼鏡で見るように、何かのパーツを見ているからだ。全体を見ることがむずかしい。総合的に判断してくださいという問題が出るとわからない。全体というのはどこにあるのか。
ここでは、例えば眠りから覚めて、完全に目がさめるまでの感覚を書く時、表現を変えて三回くらい書いている。これもすごくわかる。表現を繰り返して満足する。言葉が頭の中心に届いてわたしの中に意味が生まれるまで、三回は必要なのだ。
サンデーが単語の発音についての聞き取り方を書いていたが、そういえばわたしもそんなふうだったと思い出した。相手が発音する音が、単語として僕の頭の中でまとまるまでに音が音としてバラバラに鳴っている。それがある時に単語として理解できる。意味を持つまでにラグがあるのだ。
バナナが落ちていたら、次は転ぶだろうなとか。ホラー小説で初めの方で楽しそうにしているカップルは殺人鬼に殺されるだろうなとか。物語の約束事がある。それと並んでドリーの部屋からテレビの音がしていたら、次の展開は「サンデーはその音に巻き込まれて、しばらくテレビと会話をしてしまって、現実に帰ってこれない」とわたしは知っている。バナナと同じの自閉界隈の約束事だ。普通のバナナも多い。時々滑って転ぶ。だからこの自閉症の人は普通の人の部分がある。
ドリーは怪しい動きをする。隙あれば隣に泊まりに行ったり、ヴィータと同じ服を着たりする。でも、ドリーは、サンデーが驚かないようにおしゃべりをする。サンデーの自閉ルールをよく知っているらしい。お母さんに優しくする部分と、怪しい動きをする部分が分裂している。娘が二人いるみたいだ。
「隣人が牛乳を突然求めてやってくる」わたしはこんなことがあったら、それだけで焦ってしまう。「最初のバスに乗り遅れて、珍しく農場に到着するのが遅れてしまった」これはかなりまずい。それでも対処しているので、わたしよりも自閉は軽いのかと考えた。
わたしは自分のルールから脱線してしまうと起こる絶望を、文字にする材料にする。会話をするときには、頭に浮かぶ言葉を連続で投げる。順序を考えてる間は少しもない。頭から消えてしまいそうになる単語を捕まえて投げる。「あのパーティのあと、ヴィータに会ってないし、電話ももらってない。わたし、あなたにおこったこと、全部知りたい」このセリフの単語の並びがわたしに似ている。とりあえず投げている感じがする。
ここまでは、わたしに似ている部分を書いた。ここからは似ていない部分をかく。主人公は女性だ。自閉症であって、子供を育てている。人に合わせようとして、よくオーバーヒートしている。自分が思うことを言ったらいいのにと思う。そんなにかたくなに自閉症の参考書を読んで抱えるのは大変だ。
彼女は、自分の母親に責められた記憶がある。その記憶に繰り返し責められている。再生しなきゃいいのにと思う。だがしかし、自閉症は自動再生機能が止めにくとわたしは感じている。ふと気がつくと、今の時間を生きていなくて、昨日を再生してする。昨日誰かに言われたこと、数年前に触った壁の手触りなどに襲われている。その間、現実のわたしははたから見ると空っぽだそうだ。
この世界では、自分のパズルがはまらない。自分を消して子育てをしていたり、誰かの娘だったりする。娘のために普通でいようとするのが大変そうだ。娘も母親のために自分を変形させている。わたしは自分を変形できない。ルールを覚えて守るのと、普通でいるのは似ているけど違う。わたしは普通で居たいと思ったことはあるけど、だいたいできない。サンデーたちは器用だ。
情緒的にと帯に書かれていたけれど。わたしはできるだけ余分なものをなくした電化製品の説明書のように書いている。もしくは理科のレポートだ。「鳥の心臓のような」と言う例えばの表現。わたしはおじいちゃんの古い本のページを表現するのに「黒糖ロールパンのような」と書いた。これはかなり違うとわかる。わたしはそのまんまだ。
だから、この部分は共感できない。でもとてもきれいだと思う。この物語は全体的にきれいだ。とても穏やかだし、我慢強い感じが満ちている。一生懸命に自分と娘を守っている。だからわたしは隣のヴィータは邪魔だとずっと感じている。だけど共感は必ずしもしなくてもいい。これは違うはなしなのだと、違うことを楽しむのだ。
最後、事件が起きる。それはサンデーをおどかさないために知らされない。それは親切ではないと強く思った。
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