「わたしは、あなたとわたしの区別がつかない」の中で「鏡の向こう」という章をつづった。鏡に映った人物が誰だかわからないと感じるはなしだ。その内容に関しての追記を書く。
高校の現代文の授業で、村上春樹さんの「鏡」を読んだ。そのあらすじはこうだ。主人公の「ぼく」は若い頃にとても怖い目にあった。18、19歳の頃に中学校の夜警をやっていた。午後9時と午前3時にに見回りに行く。それ以外の時間は、寝たり遊んだりと「ぼく」にとってかなり楽しい仕事だったらしい。
ところがある日、午前3時の見回りに行くと目の前に鏡があって映った自分の姿い驚いた。なんだ鏡かとすぐにそう思い、鏡の前で煙草を吸っていると、そのうちにぼくの本能が、あれは自分ではないと気付く。そのうち、そいつが鏡の向こうから支配をしようとしてきたので、鏡を壊して逃げる。「楽しい」から転げ落ちる。
わたしはこれを読んで、自分もそういうことだったのかと感じた。もう一度、実際に鏡を見てみた。鏡を使わないと見えないわたしの顔。文字が左右反対になり、別の言語になる世界。わたしの顔も、同じに見えるが反対になっている。これはやはり別世界だと感じる。わたしはアンノーンになってしまっている。鏡に映ったわたしは、やはりわたしとは言えない。
多くの人は、鏡に映った自分を見て、自分だと思うらしい。村上春樹さんのように「支配される」と感じるほうが、わたしは近い。この恐怖の物語を読んで、授業中に雷に打たれた。鏡の前に立つことを、全力で拒否をするわたしが今もまだいる。
とにかく、わたしの世界と鏡の世界は一致しないのだ。これも本に書いた「異変はこの世の終わり」とも共通する話なのかもしれない。鏡の中はたいせつな日常を壊す異変だらけだ。鏡はいつも何かをかけて蓋をしておくべきだと考えている。
それなのに、MacBook Airのモニターもわたしを映すし、雨が降れば水たまりもわたしをにらんでくる。水たまりにアンチグレアフィルムは貼れない。どうしようか。
このように、わたしの日常には恐怖がたくさんあるが、多くの人はそれを感じない。するっと納得しているようだ。なぜだ。わたしもそちらで暮らしたい。
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